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2023振り返り

2023年が終わる。2023年が始まった時、僕はこんなツイートをしていた。

次は2024年。2×2×2×11×23。また23かよ(なんか23酔いしてきた)。それは置いといて、この一年いろいろなことがあった。色々なことがあると、酒を飲む量も増えるので物忘れがひどくなる。色々なことを忘れないように(あるいは忘れても良いように)文章としてまとめながら、今年の出来事を振り返ってみよう。

1月, 2月

地元の成人式に行かなかったり、留学生と一緒にスキーに行ったりした。 あと大学に合格した余韻で浮かれていた。

冬休みが終わり寮に戻ってからは、毎日日中はダラダラと過ごしながら夜になると覚醒し、当時住んでいたK32というユニット(7人部屋)のみんな&留学生と飲むわ遊ぶわバカ飯作るわのどんちゃん騒ぎを(4月から始まる新生活への期待を不安を叫びながら!)繰り返し、部屋の様態はカオスを極めた。他の部屋からソファーをもらってきて2台のソファーを向かい合わせてくっつけることでハイパーセレブソファーを生成したり、机をもらってきてくっつけることで机の上で生活できるレベルの広さの机を生成したり、畳ベッドをリビングに集めて和室を生成したりした。もちろん、寮を管理する先生方に怒られるわけだが、どうしても屈したくなくてあの手この手で部屋を改造していた。

同時並行で卒研をChatGPTとともに頑張っていたが、なかなかコレといった成果が出ず困っていた。困りすぎて、水入りの瓶を振り回して部屋をびしょ濡れにしてしまった覚えがある。そんなこんなやってたら良い成果が出たのでそのまま勢いで卒論を書き上げた。

愉快痛快ライフ
壁のような何か(卒論前)

3月

永遠に続くものだと思っていた寮生活が終わることになり(!?)、部屋の片付けをする羽目になった。なんやかんや掃除しつつ、皆で別れを惜しむ集いをやっていたりしていた。そして寮生活最終日、マツケンサンバを大音量で流しながら退寮。

ブラザーズ(もう少しいるよ)

春休みは、軽音部の卒業ライブがあったり、東京に行って東京観光をエンジョイジョイしたりした。 残りの暇な時間はp5.jsで遊んだりしていた。

この近くで食べた寿司が美味かった

そして卒業式当日。式自体の記憶はあまりない。とにかく早く帰りたかった。実際さっさと帰った。そして式後に催された寮生飲み会をエンジョイジョイして、その後にジャズバー行き最後にカラオケオールへ。歌いまくって、楽しく最後のひとときを楽しみ、スッキリとした気持ちで皆とお別れすることができた。

そして、卒業式の次の日に福岡へと引っ越し。福岡は暮らしやすい。飯も美味い。地元からもそれなりに近いためホームシックにもならず、生活自体はうまくやっていけそうだと思えた(友達がいないのは寂しかった)。

4月, 5月

春休みの暇な間p5.jsを触っていて「これ使って何かしたいなー」と思い始めた頃、先輩の石山さんからエンジニアカフェという施設を紹介してもらい、そこへ相談に行くことになる。相談対応してくださった田中さんが、p5.jsを使ったことがある&ジェネラティブアートに興味を持っていたこともあり話が盛り上がって、結果エンジニアカフェでp5.jsを使ったイベントをやることになった。イベントはコミュニティマネージャーの山田さんに手伝ってもらいながら準備を進め、5月のはじめに実施することができた(書いていただいたイベントレポート)。このイベントは『創算部』というコミュニティのイベントとして定期的に続けていくことになる。

p5.jsを使った作例

そんなこんなしていたらいつの間にか大学へ入学。入学初日に、かねてより志望していた研究室を主催している城さんの元へ行き、「今年度のうちから何かしら研究室の活動に関わらせてもらえないか」と尋ねたところ「ゼミに来ていいよ」とのことだったので、ゼミに参加することにした。

最初のゼミに参加すると、ちょうどスタンフォード大のPaul DeMarinisさんがサバティカルで研究室に滞在しており、彼の制作の様子をみることができた。DeMarinisさんの名前は『音と耳から考える』という本の中で見たことがあったが、活動内容については全く知らなかった。

そんな中、ゼミに参加している流れでDeMarinisさんをメインゲストとした研究室主催のイベント『stain』(イベントレポート)をスタッフとして手伝えることになり、彼をはじめとしたサウンドアーティストたちのパフォーマンスを準備の段階から間近でみることができた。僕にとっては初めてのサウンドアート経験だった。 パフォーマンスの後にトークセッションが行われたのだが、その中でDeMarinisさんがテクノロジーに関する問題について話していた。彼がいうには、このままではテクノロジーの未来は”hopeless”(希望なし)であり、鼠取りにハマった状態の人間は、その中でスマホをポチポチしているのだという。技術と人間の関係を考えるという観点からメディアアート(と呼ばれているような分野)に興味を持っていた(つもりの)僕は、彼がどのようにして、彼自身の作品制作を通してテクノロジーに関する諸問題にアプローチしているのか(ということについて彼自身はどう語るのか)気になり、後日、彼に直接質問した。

僕は「あなたはどのようにして、あなた自身の作品制作を通してテクノロジーに関する問題にアプローチしているのか?」と聞いた(今考えると直球すぎて恐ろしい!よくこんなこと聞けたなと思う)。その瞬間、さっきまで他の先輩とにこやかに話していた彼の顔が真剣な表情になり、ちょっとだけビビったのを覚えている。彼は、ビギナーの僕にも理解できるように基礎的なアイデアを教えてくれた(製品を、企業の想定から外れた領域で使うことや、メディア考古学のことなど)。その中で彼から「君は何を作っているのか」と問われた。正直、返答には困った。それは、自分が今まで「作品」と言い張れるようなものを作ったことがなかったから。僕は正直に「僕は今まで意味のあるものを作れたことがない」のだと答え「どうやったら意味のあるものを作れるか?」と聞いた(この辺のやりとりは、僕が焦りすぎて彼の英語を全く聞き取ることができなかったため先輩が通訳してくれていた)。すると彼は「意味なんて気にするな、この世はすべて虚像なのだから。意味は、作りながら考えるといい。」と答えた。多分、意味なるものが僕らが知覚するモノと同じ次元で存在しているわけではなく、むしろ見出すことによってしか生まれないものなのだから、まずは何かを作って、それを見ながら意味を考えれば良いのだ、ということだろう。そして「今晩中に5つ何か作れば(既に作ったもののブランチも含めて)(そうすると自分のやりたいことが少しはわかるから)良い」とのことだったので、その日の夜になんやかんややって、1つ良いと思えるものができ、研究室の人たちに見せることができた(ただこの時の説明はよくないところもあって、後々反省することになる)。そしてDeMarinisさんはアメリカへ帰っていった。

作ったもの。まだ「作品」ということはできなかったが、見出せるものがあるように思えた。

普通の学校の話も少し。高専から大学へ編入すると、高専で取得した単位を大学の講義と照らし合わせて単位認定してもらう必要があり、それがどうなるかわからず不安だったが、めちゃくちゃ優しく認定してもらえた。

友人もできた。編入生だし、友達はできないかもしれない。まぁ、できなくてもいいが…。くらいの気持ちで入学したが、クラスの人々も、僕と同じく編入生の人々も良い人ばかりで普通に友達になってしまった。飲み会の時に「高専で何してたの?」と聞かれた時には「専攻は一応、制御と情報みたいなところで、部活は軽音部で…」とか言いながら↓の動画とか見せてたら大体ウケてた。あと高専アンチキャラやってた。当時は自分自身のアイデンティティが「高専から来た人」しかなかったし実際学校ではあまり良い思いをしてこなかったのでしょうがない部分もあるが、今考えるとめちゃくちゃキモい。

ありがとう、3年前の自分。

普段のゼミについても書いておこう。ゼミでは、基本的には研究室メンバーが(時には先生が)それぞれの研究内容について説明して、それについて毎回コメントを求められる。毎回のゼミを通して、僕はコメントするのが下手なのだとつくづく思い知らされた。なかなかうまくコメントできず、的外れなコメントや、まるで上から目線のようなコメントをしてしまうことがあり、その度に家に帰って大反省会を開いていた。だが、これも良い経験だと心から思う(少しずつ慣れてきたし)。それも含めて、ゼミはすごくおもしろい!研究室メンバーそれぞれの研究内容も、まさに自分が興味を惹かれる内容だし、何より自己参与性が高い。僕の中で毎週の楽しみになっていた。あと夏学期だけ現代音楽・音楽学系のゼミに行ったりもしていた。

6月, 7月

創算部のイベントをぼちぼちやったりする傍ら、「よし!制作するぞ〜!」と謎の意気込みを見せていたものの、何もできず困ったりしていた。それもそのはず、前回「意味ありげなもの」を作ってしまったせいで次も「意味ありげなもの」を作ろうとばかり考えて、手を動かすフェーズになかなか入れずにいたのだ。6月の後半になってやっとそのことに気づきとりあえず手を動かしてみたところ、これ↓ができた。そして、これができるまでの話をゼミで発表したりした。

誰かが発言すると泡が出る。

当時の自分にはこれが効果的な「インターフェースの相対化」のように思えて、それでGUIや記号に関する本を読んでこれの意味を考えてみるか、ということでいくつかの本を渡り歩いていたらいつの間にか俳句に辿り着いていた。今考えても意味がわからない。当時は「これ面白いなぁ」と思うものがなんでも自分の制作や、それから意味を見出すことの役に立つものだと思っていたが、そんなものはいくらでもあるのだから、ある程度の選別をしながら自分のオリジナルマップを(ある意味計画的に、戦略的に)作っていかなれければならない、ということに気がついたのは8月に入ってからだった。

大学では、図書館がリニューアルされて映像や音を使った展示向きのスペースができた。そこで行われた牧野さん, 宮下さんの展示や、それに関連するトークイベントが行われた。展示に関する感想を求められたりして、アーティスト本人を目の前にして焦りながらも喋った。

なんてことをしていた頃、石山さんから「福岡未踏にエントリーしよう」と誘われていた。福岡未踏というのは、情報処理学会(IPA)が主催している未踏事業というものをモデルとした、福岡での人材発掘を1つの目的としたプログラムであり、IPA未踏と同様に自分の考えたアイデアを持ってエントリーして、これに採択されるとお金を貰いながら自分が考えたものを開発することができる。

ただ、僕はあまり乗り気じゃなかった。なんとなく意識高い系の人が多そうだったから。事実、最初の説明会に参加してみると意識高そうな人が沢山きていた。説明会後の懇親会でも、会場内の至るところで「私、こんなものを考えているのですが!!!」とアイデアの晒し合い(僕にとってはほぼ威嚇)が行われており「ひぇ〜」と怯えながら、しかし怯えを見せないよう毅然とした態度でピザをつまんでいると、いきなり知らない人から「オッス、お疲れ!」と話しかけられ、「なにかアイデアあるん?」と僕が考えていることや、さらには僕の学部や専攻のことまで根掘り葉掘り聞かれた。しかも質問が結構するどい。さらに、僕がいくつかいただこうと思っていた目の前のピザを全部食べられた。そして彼は帰っていった。この出来事があって、というわけでは全くないと思うが、なぜか懇親会後には「まぁ〜〜とりあえず出してみるか」くらいには前向きになっていた。

その後、僕らは「生成的に折り紙(のような何か)をするためのツール Orimetry」を開発するという内容でエントリーし、書類選考・面接を通過して採択された。正直なところ、自分たちのアイデアは抽象的すぎて(そもそもアイデアを提案して開発するというのが初めての経験だった)メンターの方々に伝わっているか不安だったが(実際のところ全員には伝わっていなかったのだろうが)、伝わった人には伝わったらしくなんとか採択された。ピザ全部食べてた人も採択されていた。

採択されてみると、一緒に採択された人はおもしろい人たちばかりで安心した。意識高い人もいるが、彼らは「ちゃんとした高い意識」を持って開発している人たちなので、よくないタイプの低い意識しか持っていない僕にとっては良い刺激になった。

8月, 9月

芸工のオープンキャンパスがあった。ワークショップのお手伝いをしたり在学生ながら施設見学をしたりしてエンジョイジョイした。

ワークショップ
映像フィルムをスキャンする装置

また8月上旬は夏休み前、夏学期の締めの時期で作品制作系の講義の発表会などがあった。このとき、いくつかの授業でグループでの作品制作を経験したが、全くうまくいかなかった。グループ制作って難しすぎる!一生うまくできる気がしないと思った。いずれも他の人に問題があったのではなく、僕に問題があった。このときはひどく落ち込んだ(経験として良いものであったことは間違いない)。

一方で、福岡未踏の最初のブート会議を目前にしてツールのプロトタイプを作成していこうと思っていたもののうまくいかず、心の底から「自分には何もできない!」と思った。もはやブート会議にも行きたくないくらいの気持ちだったが、行ってみるとプロジェクトのメンターになってくれたお二方が優しくて、お話ししているうちに元気が出た。

メディア考古学関連の研究会が芸工で行われることになったのでとりあえず参加してみたのだが、これが良かった。ある程度ディープな学術的議論の部分は、ビギナーの僕には理解しきれない部分がほとんどだったが、参加されていた方々と交流できたのがすごく良かった。本やインターネットで既に名前を知っていた方々もいたし、他にも興味深い取り組みをされている方々と交流することができた。特にジェネラティブアーティストの高尾さんとは、僕が創算部のイベントを計画するときに高尾さんの作品を参考にさせていただくことがあるなどとお話したりして、次の日に一緒にエンジニアカフェへ行くことになり、田中さんや山田さんも交えてトークセッションしたりした。

こんなことってあるんだね

この頃、自分を見失っていた時期でもあった。自分にしかできないこととは何なのか、これから何をしていくのかの「答え」がとりあえず欲しくて(そんなものすぐに出るはずがないのに)、日々本やインターネットを見ては「これちょっとおもしろいな、自分はこれをやっていけばいいのでは!?」「いや、でも今すぐに取り組むパッションはないな…」みたいな思考を繰り返していた。 今(年末に書いています)思うのは、自分がやっていくこと(大きなもの)を自分で定義してから取り組むというプロセスは、不可能ではないかもしれないが、それで全てをうまく運ぼうとするのは、僕にとっては無理があるように感じる。自分がやっていくことは、自分がやっていることの中から有機的に生まれ、とある形に向かっていくように思える。だから、自分のやっていくことを形作るには、いわゆる目標設定のようなことをするだけではなくて、何かをやると意気込まぬうちに何かをやることがかなり大事になってくる。僕の役割は、植物のように動き続ける自分の人生を客観的・機械的に管理することのみではなくて、既にかたちの中から生まれようとしている新しいかたちに期待し続けることでもある。

そして夏休み。夏休み中はずっと「福岡未踏の開発しなきゃ…」と思いつつもなかなか捗らず、少々プレッシャーを抱えながら生活していた。あと、友人の大塚くんとこれ↓作った。

これ楽しいんだよね

夏休み後半、音響設計コースの研修旅行で東京&浜松へ行くことになり、ついでに研究室や研究会でもらった東京開催の展示のチケットがいくつかあったため、色々な展示(ICC, TOP, SusHi, IMT, etc)を巡った。初めてちゃんと展示巡りをした。

『何が見える?「覗き見る」まなざしの系譜』(東京写真美術館)で見たゾートロープ
インターメディアテクで常設されているたくさんのグラモフォン

浜松へ行った時に、YAMAHA&Rolandにいる音響のOB・OGが集まって合同飲み会があったりして、いろんな話を聞けて楽しかった。

10月, 11月

佐伯さんの展示を毎日見に行ったり、アーティストを招いたイベントに参加したりしつつ(大学の先生方が積極的にアーティストを招いてくれる、最高!)、福岡未踏の開発期間がいよいよ締めに近づいており、さらに月末にワークショップを開催することになっていたため、ヤバイヤバイと思いながらOrimetryの形を整える作業をしていた。なんとかワークショップを開催することができ(ほぼ山田さんのおかげ)、そのままの勢いで11月頭の最終発表会へ。複数のプロジェクトが発表する中で大トリの発表となり緊張していたが、自分たちらしさのアピールと得意技の泣かせるトークでなんとかクリア。プロジェクト全体を振り返って、すごく良い経験だったと思う。自分自身のこれからの可能性を高められたことは間違いない。後日、プロジェクトについてインタビューもしてもらった(髪の毛がノビノビでめっちゃキモい)。

ワークショップの様子
Orimetryの出力例

そして、福岡未踏の発表会があった数日後、初めてサウンドパフォーマンスをする機会があった。やった内容としてはこれ↓。

これはうまくやれなかった。そもそも自分が何をしているのかうまく説明することができなかったし、それ以前に自分で説明可能な形に整えることもできていなかった。ただ、やらないよりはマシだったと思う。

11月後半にはまた別の福岡未踏のイベントがあった。もう開発期間は終えているOBのような身分なので、他人の発表を聞いて質問したりするのが主な役割だった。ゼミでもそうだが、他の人のアイデアを聞いてアレコレ考えるのは楽しい。ただ、悪い質問や意見は相手のアイデアの可能性を奪いかねない。これからOB的な立ち位置で福岡未踏というコミュニティに関わるかもしれない僕は、これを肝に銘じておかなければならない。

また、後期はやっと音響設計コースらしい講義が増えてきた時期でもある。音響の授業は楽しい。特に工学的なものは、自分が高専で学んできたものと結びつくものも多い。高専時代は自分が学んでいるものが何に結びつくのかということについてそもそも興味がなかったような気がするが、それに対して(主に音楽の方面から)元々興味を持っていた音は、聞こえてくる音としての結果が、それを生み出す過程と直接的に結びついているのでかなりおもしろく、その過程作りに自分の知識が活かせるというのは楽しい。そしてその聞こえてくる音について、文化系・心理系などの講義で得た知識から考察できるのもおもしろい。自分の活動と学業どちらもうまくやるのは大変だが、この大学・コースに編入して良かったと思える。

12月

メディア考古学的なアートの実践者として語られる岩井さん(絵本『100かいだてのいえ』の作者としても知られている)に会いたいなぁ〜と思っていたら、なんと芸工で岩井さんの講演会が開かれることになったので行った。講演ではライフワークとして活動していくアーティストにとって大切なことを、実践者として伝えてくれた。せっかくなので「エネルギーが出なくて困るときはないんですか?」などと質問してみると、彼の仕事術というか、自分がやるしかないものとの向き合い方を教えてくれた。 講演会後にお話しに行くと、『SOUND-LENS』や『TENORI-ON』で遊ばせてくれた(僕がSOUND-LENSを付けると、岩井さんが赤外線式リモコンでビームを打ってくれたりして、こんなことってあるんだと思った)。

SOUND-LENS

そしてこの頃、制作などに使えそうな諸々の機材を購入したりする作業をしていた。実験には機材が必要だし、制作には実験が必要なので、これからも意識的に機材を集めていこう。

月末には宮下さんの展示の準備をお手伝いをする機会があった。今までアーティストのパフォーマンスを準備の段階からみる機会はあったが、展示の準備や作品の設置をみる機会はなかったのでかなり良い経験になった。

そして年末。結局、2023は展示とかしなかったなぁ、あと冬学期末締めの制作課題(作曲、バイオ)どうしよう、などぼんやり思いながら、新しく届いた機材を使って実験をしていたところ、面白いものをみつけた。そして「これ展示できるな」という思考にまで到達することができた(展示の手伝いをしたことで自分の展示がイメージしやすくなり、ここまで到達できたのだと思う)。このままのノリでいってしまおう。どうせ制作は課題としてやらなくちゃいけないのだし。2024年はじめは音響設計コース恒例の口頭試問(進級試験みたいなやつ)もあるし、忙しくなりそうだ。 (2024年4月追記 この時の僕は何もわかっていない!この後地獄を見ます)

イベント的なものを中心に取り上げて書きまとめたが、ここに書ききれなかったこと(特に大学の講義など)も含めて、今年は多くの刺激を受けられた一年だった。振り返りながら、自分って運良すぎる!!!!と思ったりもしたが、良い出来事は、お世話になっている方々によって繋げられた縁によって生まれているものばかりである。来年以降も日常的に色々なところに顔を突っ込んで、そういうご縁を増やしていきたい(大学サイコー、だけど大学以外にもね)。

そして、来年はより「うまくやれる」ようになりたい(!!切実に!!)。今年、自分で手を動かしてモノを作ったりイベントを計画したりパフォーマンスをしたりする経験があり、同時に学業が疎かにならないようにバランスをとり続けなければならなかったり、それらから自分の在り方や見せ方について考えながらやっていく必要があったが、それら全て「うまくやれた」とは全く言えない。むしろ今年は自分の無能さ・無才さを痛感し続ける一年だった。もっと良いやり方がある。「うまくやれるようになる」これは短期的に解決できる問題ではない。しかし、自分が動き続けていれば時間が少しづつ解決してくれるという側面もある。まぁ、なんとかしよう。なんとかなるでしょ。

とりあえず、声でかくしていこう。

というわけで来年もよろぷい!!!!!!!!!!!!!

年末にとれた襟足